M女の隠れ家                                          <コラム−15>


「ビーチボールを追いかけて」

僕がまだ小学生の頃、よく梅雨入り前の時期に友達と一緒に海に泳ぎに行きました。
家が海から近かったので、自転車で海まで行って砂浜で遊んだり、この季節はもう泳いだりしていました。
この梅雨入り前の時期はまだ海水浴客もほとんどおらず、海辺は静かで水もきれいでした。
泳いでいると、小魚の群れがお腹のあたりにコツコツとぶつかって来たりしたものでした。

      

小学5年生の今頃のことです。
ある日、4〜5人の友達と一緒に海で遊んでいたら、波間にビーチボールが浮かんでいるのを見つけました。
僕はいい拾い物だと思って、そのビーチボールを取りに泳いでいきました。
家が海に近かったこともあり、小さい頃から僕は泳ぎには慣れていました。
ところがそのビーチボールに向かって泳いでいくのですが、なぜかなかなかビーチボールに手が届きません。
あとほんの数メートルなのに、届かないのです。

その当時、僕らは年長の子どもたちから、その砂浜の潮の流れのことを聞かされていました。
潮は沖から陸に向かって流れてきて砂を運び、そこに砂浜を作ります。
その潮は砂浜にぶつかると横に流れていき、ある場所に来ると今度は沖に向かって引き潮となって戻っていきます。
潮はそうやって循環しているのです。
もしその引き潮に乗ってしまうと、どんどん沖に引っ張られていってしまい、子供の力ではいくら一生懸命に泳いでも、その流れはまるで川のように速くて戻って来れなくなるから、絶対に引き潮に乗ってはいけない。
そして、その引き潮は日々その場所と大きさを変え、しかも海の波に隠れているから、どこにあるのかを知ることはできないものだと・・・。

僕はビーチボールを追いかけていくあまり、知らないうちにその引き潮に乗ってしまっていたのです。
ビーチボールまであと1メートル、あと50センチの近くまで来たのに、手が届きません。
ビーチボールとともに、僕はどんどん沖に流されていきました。

遠くに僕を呼ぶ友だちの声が聞こえました。
僕は、その声に振り返りました。
すると、陸がはるか遠くになってしまっているのです。
いつの間にこんなに沖にまで泳いで来てしまったのかと、僕は愕然としました。
あんなに遠くては、戻れないかもしれないという恐怖が、僕の頭をよぎります。

ここまで泳いで来る間に、もうかなり体力を使っていました。
ここでビーチボールをあきらめて引き返すか、それともあとほんの少しで届くところにあるビーチボールを取るか、僕は迷いました。
でも、もう少しのところにビーチボールはあります。
ビーチボールさえ取れれば、それに掴まって浮いていることもできます。
僕はビーチボールを追いかけるほうを選んでしまったのです。

あと30センチ、あと20センチ・・・、そうやって追いかけているうちに、ますます僕は沖に引っ張られて行きました。
もう僕を呼ぶ友だちの声も聞こえなくなりました。
風の音だけが聞こえてきます。

僕は必死にビーチボールを掴もうと泳ぎました。
そして遂にビーチボールに僕の手が届きました。
僕の右手がビーチボールを掴んだ瞬間、そのビーチボールは「ぶしゅしゅ・・・・。」と言う音とともに、ビニールの皮だけが僕の右手に巻きついてつぶれていきました。
丸いビーチボールの形はもうなく、皮だけになったビーチボールを掴んだ僕の右手は、海の中に沈んでいきます。

恐怖で、僕は震えました。
このビーチボールは破れていたのです。

すぐに僕は向きを変えて、陸に向かって引き返そうとしました。
でも、あまりにも沖に出すぎていました。
陸地は波の向こうのはるか遠くで、もう人の姿も見えないほどです。

ここから川の流れのような速さの引き潮に逆らって、陸にまで泳ぎきれるだろうか・・・。
僕は恐怖のあまり、バタバタと力まかせに泳ぎました。
でもそんな泳ぎ方では、ますます体力を消耗するばかりで、ほとんど前には進みません。

僕の体力はもう消耗しきっていて、足は痙攣を起こしています。
正面から向かってくる波が、僕の泳ぎを邪魔します。
何度も何度も海水を飲みながらも、僕は必死で泳ぎました。
こんなところで死にたくない・・・、そう強く思いながら。

その時、波の向こうの遠くに友だちの姿が現れ、斜めの方向に泳ぐように全身で合図をしているのが見えました。
僕は疲れきった体で、その合図に従って泳ぎの向きを変えて、陸地にまっすぐ向かうのではなく斜め方向に向かうようにしました。

すると、これまで引き潮に向かって泳いでいたために、なかなか前に進まなかったのに、引き潮の流れから外れて前に進めるようになったのです。
少しずつ陸地が近づいてきました。

この時、僕は右手にまだビーチボールの皮を握っていたことに初めて気づきました。
「こんなものをまだ掴んでいたのか。」と、僕は腹立たしさに放り出しました。

今にして思えば、あのビーチボールは最初から破れていたのです。
ビーチボールは、縦に6枚のビニールの皮を貼り合せて作られていました。
その貼り合せの一部がはがれたために、つぶれて捨てられ、海に浮かんでいたのです。
その裂け目から海水が少し入り、強い日差しを浴びたためにビーチボールの中に入った海水が蒸発してビーチボールを膨らませました。
そうすると水蒸気でビーチボールの内圧が高まり、縦の裂け目が一時的にふさがって丸い形を取り戻していたのです。

子供の僕はそんなビーチボールを追いかけて行き、引き潮に引っ張られもう少しで海の中で命を落とすところだったのです。
何とか砂浜にまで戻ることのできた僕は、疲労と恐怖でしばらくは声も出ませんでした。
友だちが何かわめいているのが、ぼんやりと聞こえました。
ただ、へとへとになった体を濡れた砂の上で震わせていました。

   

今でもこの季節になると、あの時のことを思い出します。
僕が今追い求めているものは、あの「破れたビーチボール」ではないかという疑問が湧きます。
もう少しで手が届くところにあるように見えても、なかなか届かない・・・。
そして遂にこの手で掴んだ瞬間、あの「破れたビーチボール」のように海の中に沈んでいくのではないかと・・・。

遠くの陸地では、大切な人が僕を呼んでいます。
でも僕はその人に背を向けて、「破れたビーチボール」を追い求めて沖に向かって泳いでいます。
そんな恐怖を、この時期になると思い出します。

あなたが追い求めているものは、本当は何ですか?
あなたは今、どこを泳いでいるのですか?



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