M女の隠れ家                                          <コラム−26>


「子供頃の夏休み」

このコラムは、日記の中からの抜粋です。

2007年5月25日の日記にも書きましたように、僕は海の近くに住んでいたせいもあり、小さい頃から泳ぎには慣れていました。

海にはよく行きましたけど、夏休み中は家から4キロほども離れた山あいにある堤(つつみ)にも時々泳ぎにいきました。
そこは、渓谷のようなところに作られたかなり大きめの堤で、細長くて入り組んだ形をしていました。
両岸には断崖のようになっているところもあり、山の緑を湖面の映して、それはそれはとてもきれいでした。
山水が絶えず流れ込んでいて、水は冷たく透明度がとても高いので、潜ると水の底までくっきりと見えました。
この堤は岸から急激に深くなっていて背の立つところがほとんどないため、子供たちの間でもこの堤で泳ぐのを許されるのは高学年でしかも泳ぎの達者な者に限られていました。

僕が小学校6年の夏休みに、3人の仲間たちとこの堤に泳ぎに行った時のことです。
この堤に行くには自転車で山道を上って行き、最後に狭くて真っ暗なトンネルを抜けなければなりませんでした。
このトンネルは軽自動車1台がやっと通れるほどの幅しかなく、長さは数百メートルほどだったと思います。
トンネルの中は電気が付いていなくて真っ暗で舗装もされておらず、崩れかけた岩がいくつも散乱していて久しく車の通った様子もありませんでした。

自転車でこの真っ暗なトンネルを走るのは危険だったため、僕らはいつもトンネルの入り口に自転車を置いて、必ず誰かが持って来る懐中電灯1個を頼りに歩いて通りました。
時折、トンネルの中を風が通り抜けると、風の音が反響して「おおぉ〜ん」という不気味な音をたてました。



このトンネルがいつ頃に掘られたのかは誰も知りませんでしたが、一直線ではなく曲がっていて入り口からは出口が見えず、途中まで歩いて行くと入り口も見えなくなって、出口も入り口も見えない真っ暗闇になる区間がありました。

僕たちはそこを4人で懐中電灯を持った子を先頭にして、歩いて通りました。
真っ暗なトンネルの中を、薄暗い懐中電灯1個を頼りに歩いていると、他の子もちゃんと後ろにいるのかが不安になって「やっぱ、トンネルは涼しいな」とか「タツ、転ぶなよ」などと声を出して、お互いの存在を確かめあったりしました。
タツと呼ばれていた子は、4人の中でも少し運動神経が鈍くて、やや小太りの子でした。

トンネルの出口が見えた時、輝くのような光が差し込んでいて、みんなその向こうにある楽園のような堤に胸を躍らせました。
トンネルを出ると、まぶしい光とともにやかましいセミの声が一斉に降りかかってきて、静かなトンネルの中とは別世界のようでした。

トンネルの出口からしばらく歩くと、急に視界が開けて緑の湖面が広がる堤に出ました。
不便なところにある堤のため、半日泳いでいても誰と会うこともなく、僕たち子供だけの楽園でした。
青く透明な水の中を、時折、たくさんの魚たちが群れを作って泳いでいます。
水面に仰向けに浮かんで、真っ青な空を見上げると白い雲と緑の木々のコントラストがとてもきれいでした。

堤の向こう岸に少し開けた原っぱのような場所があり、僕たちはそこに秘密基地を作ったりして遊んでいました。
僕たちは、よく水中メガネを着けて潜ったりしていましたが、堤の水は冷たくて40分ほども水の中にいると唇が紫色になってきて、友達同士で「おい、唇が真っ青だぞ。一度、上がれ」などと、よく注意し合っていました。
水から上がって秘密基地で寝そべっていると、夏の空気があっと言う間に体温を回復させていきます。
そんなことを繰り返しながら、僕らは透明な堤の水の中を泳ぎ回っていました。



その堤には深くて暗い淵がいくつもあり、子供たちの間ではその淵の底には魔物が棲んでいて、子供たちの足を掴んで水の底に引っ張り込むから、その淵には近づいてはいけないと言われていました。
水の中を潜っていると、遠くに暗い淵が見えますが、僕たちはその淵には近づかないようにしていました。

学校では、その淵の近くで何かに足を掴まれたことがあるという子がいて、その時の恐怖を大げさにしゃべっていました。
「あそこで泳いでいたら、左足にヌルリとしたものが巻きつくんだ」
「びっくりしたぞお」
「慌てて振りほどこうとして足をバタバタと動かすと、それはグイッと下のほうに引っ張るんだ」
「もう必死よ」
「右足でそれをガンガンと蹴とばしたら、少し緩んだんで、その隙に振りほどいて逃げたんだ」
「できるだけ足を水の上にあげるようにして、慌てて逃げ帰ったよな」
「あれば絶対に淵に棲む魔物だ、間違いない」

僕は草のツルでも足に巻きついたんじゃないのかと思っていましたが、その真剣な語り口にそんな反論をするのがはばかられて、黙って聞いていました。
そして、少しだけあの淵の底には魔物がいるとも信じていました。

山の夕暮れは、急に訪れます。
時計を持っていない僕たちは、薄暗くなってきて初めて夕暮れが近いことを知りました。
トンネルの向こう岸の秘密基地から堤を泳いで渡り、あのトンネルを通り抜けて帰らねばなりません。

僕たちは、急いで堤を泳ぎ渡ってから濡れた体をタオルで拭くこともせずに慌てて服を着て、トンネルを目指して歩き出しました。
あたりが薄暗くなってからこの真っ暗なトンネルの中に入る時には、少しためらいがありましたが、ここを通り抜けなければ家に帰れません。
意を決して、トンネルの暗闇の中に進んでいきます。
トンネルの中ではみんな早足で、言葉を発することもなく黙って歩いています。

入り口も出口も見えなくなる区間をしばらく歩いている時、またあの「おおぉ〜ん」という風の音がトンネルの中を響き渡りました。
僕は心臓をドキドキさせながらも、みんなが近くにいると信じて懐中電灯の明かりの後ろをついて行きました。
早足で歩いていると、つま先にゴツゴツとした岩が当たって痛みを感じましたが、そんなことで足を止めることはできませんでした。
多分、みんなが同じだったはずなのに、誰もそんな足の痛みを言う子はいませんでした。

ずいぶんと長く歩いているような気がした後で、ようやく暗闇の向こうに僕たちが自転車を置いてきたトンネルの出口が見えてきました。
そこには弱くなり始めた夏の光がかすかに差し込んでいました。

突然、誰かが「ワーッ」と声を上げて、その出口に向かって走り出しました。
すると他の3人も、一斉に声を上げて走り出します。

「アー」
「ワーッ」
今まで我慢していた恐怖が一気にみんなの後ろから襲いかかってきます。
足元にはゴツゴツとした岩が散乱しているため、当然、懐中電灯を持った子が一番早くトンネルの暗闇の中を駆け抜けて行きます。
すると残された3人は、懐中電灯の明かりのない真っ暗な中を走っていかなければなりません。

つまづいて転びそうになりながらも、僕はようやくトンネルから出て息を切らせながら地面に座り込みました。
懐中電灯を持った子ともうひとりの子も、トンネルの出口を出たところでへたり込んでいます。

ところが、僕たちがタツと呼んでいた少し小太りの子だけが、まだトンネルから出てきません。
しばらく待ってみましたが、出てこないのです。
だんだんと僕の息も整ってきました。
それに伴って冷静さも戻ってきます。

「おい」
僕たちは、タツがどうしたのか不安になり、お互いに顔を見合わせています。
でも、それ以上に何かを言うのをみんなためらっていました。
どうしたものかと誰もが悩んでいるのです。

僕は、立ち上がって真っ暗なトンネルの中を、恐る恐る覗き込んでみました。
しばらく暗闇の中を見ていると目が慣れてきて、かすかに暗闇の中で何か動くものが見えます。
それがゆっくりとこっちに近づいてくるのです。
僕は、トンネルの出口から少し後ずさりしました。

「ヒッ、ヒッ、ヒッ・・・」
暗闇の奥から小さな声が聞こえてきます。
その声が少しずつ近づいてきます。

みんなが、体を固くしてトンネルの出口を見つめていました。
夕暮れの薄暗い光の中で、トンネルの出口の暗闇がまるで別の次元と隔てているかのように見えました。

「ヒッ、ヒッ、ヒッ・・・」
そこから、泣きながらゆっくりと歩いてタツが出てきました。
「みんな置いていった・・・」

「ヒッ、ヒッ、ヒッ・・・」
「僕だけ置いてった・・・」
しゃくりあげて泣きながら、僕たちのほうに歩いてきました。
見れば半ズボンから出ている膝小僧がすりむけて血がにじんでいます。
手の平は泥で汚れていました。
トンネルの暗闇の中で転んだ様子が、よく分かります。

「悪かった、悪かった」
「もう泣くな」
みんながタツをなぐさめます。

「置いてった・・」
涙でグチャグチャになった顔で、タツは僕たちが転んだタツを置き去りにしてトンネルから逃げ出たことを恨んでいるのです。

恨むのも無理はありません。
タツの肩を叩いたりして、僕たちは早くタツが泣き止むようにしました。
ふと見るとタツは手ぶらで、水泳道具の入ったバッグを持っていないことに僕は気付きました。
トンネルの中で落としてきたようです。

「しょうがないなあ」
僕は、懐中電灯を持った子に顔を向け
「探しにいくぞ」
と声をかけました。
これからもう一度、あのトンネルの暗闇の中に入って、タツが落してきた水泳バッグを取りに行かなければならないことに、懐中電灯を持った子はためらっていました。

「ほらっ」
僕はその子の腕を引っ張ってトンネルのほうに歩いて行きながら、もうひとりの子に向かって
「そこでタツを見ててくれ」
と言い残しました。
泣いているタツを、そのまま一人にしてはおけません。

懐中電灯を持った子と二人で、トンネルの前に立ちました。
トンネルの暗闇の中が、まるで別次元につながっているかのように見えます。
手に固く握りこぶしを作って、トンネルの暗闇の中に入って行きました。
トンネルの地面を照らす懐中電灯の明かりを左右に振り、タツの落としてきた水泳バッグを探します。
しばらく歩くと、タツの青い色の水泳バッグが岩の横に転がっているのが見つかりました。

懐中電灯の明かりがなければ、暗闇の中でこのバッグを探し出すのはタツでなくても困難です。
僕はそのバッグを拾い上げて
「よし、戻ろう」
と、懐中電灯を持った子に声をかけました。

「うん」
声が震えています。
二人はクルリと向きを変えて、出口に向かって歩き出しました。
でも、今度は走るわけにはいきません。

いつもよりもさらにゆっくりとした歩調で、暗闇の中を出口に向かってふたりは横に並んで歩いていきました。
本当は走り出したい気持ちを無理やりに抑え込んで、強がりを見せています。

トンネルの奥から、またあの「おおぉ〜ん」という不気味な音が聞こえてきました。
僕はトンネルの暗闇の中に何かがいるような気がして、決して振り返らずにじっとトンネルの出口を見つめて歩いていました。
振り返れば耳のすぐ後ろに、長い舌を出した魔物がいて、それが「はぁ〜っ」と生臭い息を僕に吹きかけて襲ってくるような気がしていました。
ゾクゾクするような気配をすぐ後ろに感じ、鳥肌が立っています。
僕は握りこぶしにさらに力を入れて、手を固くしました。

ようやくトンネルの出口に差し掛かると、まだかすかに夕暮れの明かりが残っていました。
トンネルを出てから「ほう」と息を吐き、握りこぶしを開きました。
自転車の置いてある横には、タツがもう泣き止んで僕たちを待っていました。
「ほら、あったぞ」
青い水泳バックをタツに差し出すと、タツの涙で汚れた顔がほころびました。

「さあ、帰ろ」
「おう」
と声をかけあい、僕たちはそれぞれの自転車にまたがって、遠くに見える民家の明かりを目指して山道を下っていきました。
見上げれば空には、星がまたたいていました。

子供の頃は、トンネルの暗闇の中や深い水の底や薄暗い森の奥には、魔物が棲んでいました。
そんな魔物に怯えながらも、僕たちは元気に遊び回っていました。

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